伝統と伝承

花材

いけばなをやっておりますと言うと、必ず「ナニ流ですか」と訊かれる。

バックグラウンドがない

正直な話「あぁまたか」と思いながらも「フリーで活動しています」とお答えすると、先様は「どゆこと?」と、怪訝な表情を浮かべられる。

いけばなは必ず流派があるもので、それを「フリー」だなんて言われてしまうと、そりゃ困惑されてしまうだろう。

華道の世界で流派を離れるという行為は、バックグラウンドをなくし、言わば身元保証がない状態になる。

実際、流派から離れても第一線で活動されている華道家の方は、そんなに多くない。

私の花の出発点は、名古屋に本部を置く華道石田流だ。

いま私は流派を離れ、フリーの華道家として活動している。 所属していた約20年間、様々な場所で花をいける機会に恵まれた。その流派を離れた経緯はここに書くような話でもないから割愛するが、決して喧嘩別れしたわけではない。今でも関係は良好だ。

フラワーアレンジメントと違い、いけばなでは流派の存在が大きい。それぞれの流派には、宗家や家元といったトップの存在があり、その下に各教授者、さらにその下に教授者の弟子という門弟組織になっている。

そして流派には古典花・流儀花・伝承花・基本形など、名称は異なるがその流派に伝わる独自の形がある。

流派の誕生

さて、似た言葉であるが「伝統」と「伝承」は違う。

本質を変えず、しかしながらその時代に即したやり方、形に変えていくのが「伝統」

対して、連綿と受け継がれてきた形を、そっくりそのまま次代に渡していくのが「伝承」である。

いけばなは、よく「伝統文化」と言われる。先にも述べたように、伝統とは時代に即して変化していくものだ。

また、いけばなは「生活文化」とも言われる。生活の中に根付いた、花をいける行為。

学術的な分類、派生等に関して今回は詳述を避けるが、野外にある植物を屋内に飾る、もしくは別の場所に移動させ供することが、いけばなの源流である。

原始的には屋外にある植物を移動させ、鑑賞なり鎮魂といった用途に用いていた花に、いける技術や美の方法論、さらに言えば精神性を持たせ、それを系統立てて伝承していく団体として流派という単位が誕生した。

流派の違いとは

暴論極まる言い方をするが、流派の違いとは、どうしたら美しく花をいけられるかの方法論、美術論の違いである。平たく言えば、花を用いた表現方法の違いが流派ということになる。

多少の差異はあれ、どの流派にも共通して言えることは、かっこいい作品にしたい、そのためにはどうしたら良いかの考えであって、それはそれぞれの流派に伝わる古典花、流儀花、伝承花などと言われ、寸法、角度も厳密に決められている。

決まりごとが多く、煩雑で面倒くさそうな世界だが、寸法も角度も指定された通りにすれば、誰だって基本の形が出来上がるようにできている。
つまり各流派に伝わる基本とは、昔からマニュアル化されていると言っていい。

伝承花は誰が伝えるのか

流儀・流派に伝わる基本の形は誰が伝えていくのか。

もちろん定まった基本の形は、その流派に入門した時から徹底的に覚えるわけだから、教授者はもちろん、同じ流派に所属しているのであれば、その全員が伝えていく人間となる。

しかしながら生活文化でもあるいけばなは、現代の住環境とは乖離しているのも事実で、例えば本来花を飾る場所であった床の間は、現代の住宅に設置されないことが多い。

現代のいけばなは、そこをどのように変化させ、マッチさせていくかを考える必要がある。

その際に必要となってくるのが基本の形。芯になるエッセンシャルな部分は残しつつの花を飾る環境に応じてどう変化させるかが、現代に通じる伝統文化のいけばなであり、これこそいけばながいけばなでありつづける重要な要素であると私は考える。

伝統というのは、基本の形と共に教授者や門弟が支える大きな流れのことであって、その芯に伝承がある。伝承とは伝統を支える屋台骨のようなものだ。芯が揺らげば全体が揺らぐ。全体が揺らぎ始めると、伝統が瓦解するのは時間の問題となる。

では屋台骨となるのは誰か。紛れもない家元だ。

いけばなの家元とは、一人の表現者であると同時に、誰よりもその流派の形を頑ななまでに守り抜く伝承者でなければならない。

ずいぶん厳しい言い方をしてしまった。これは所属していた流派の家元や宗家に対して言ったものではない。また、私の友人にも将来は流派の家元となる人がいるが、その方に向けて言っているのでもない。特定の誰かに対して言っていない。あくまでも一般論。

いけばな人口は衰退の一途だと言われる。確かに昔のように花嫁修業で免状を取りたいというニーズは皆無。そんな今、いけばなを習いたいと入門する方は、いけばなの形が好きで、精神性が好きで習いたいと思ってくださる方ばかりだ。
文化を伝えていく志を共にしていく仲間が増えるわけで、ある意味チャンスである。

もし、私の書き記したこの記事が諌言だ、余計なお世話だと思われたら申し訳ない。私の書き方が悪いだけだ。

流派を離れ、バックグラウンドがない今の私だからこそ書けたことであると、これまた上からな言い方だが付記しておく。