新人

花教室 稽古場

コロナ禍であっても教室に入門してくださる方がいるのは、本当にありがたい。

私が花を始めたころ

さて私の教室にも、最近新しく入られた方がいる。基本の形を何度も繰り返す初めのうちは、思い通りに仕上がらない。
花を手に悩む姿を見るにつけ、私自身が花を始めた頃を思い出す。

これはまた別の機会に書くつもりだが、そもそも私は自分から進んで花の稽古に入門したわけではない。

結論から言うと、絶望的に下手くそだった。だから稽古を始めてしばらくは、花をいけていても全然面白くなかった。

だからと言って、今、いい花をいけているのかと問われれば、胸を張って「そりゃもちろん」などと自ら言い切るほど天狗ではないが、少なくとも当時の自分がいけた花の写真を見ると、どうやったらこんな散々な作品に仕上がるのか…と目眩がする。

この際だから恥を忍んで当時の写真を出すが

あーあー

……どうしてこうなったと言わざるを得ないくらいの散らかりようである。これで本人は「悪くない」と思って写真に残しているのだから救いようがない。

ただ、今の自分が「ダメだこりゃ」と思えるようになったということは、当時と比べれば多少なりとも成長しているのかもしれない。

ひどい花ねぇ

私の母も叔母も同じ師匠の下で稽古していたから、この道では姉弟子になる。

ある日、稽古から帰ってきて自宅で花をいけ直していると、通りがかった叔母が「あらー、ひどい花ねぇ」と言い残していった。習い始めて間もない人間に言うには随分と酷な言葉である。そしてこの言葉は今でも根に持っている。

ただ、あの写真を見れば、叔母の言葉もさもありなんとなる。

稽古を始めた頃は、自分がいけた作品…などとは程遠い代物を先生が手直しすると、あっという間に素敵な花作品になるのが不思議で、でもそれができない自分が悔しく歯痒かった。

ある時「あ!そういうことか!」となる日が来た。ただ「分かる」とか「理解」というのではニュアンスが違う。強いて言うならば「腹落ち」に近い感じだ。

今思えばなんてことない、基本寸法に忠実にいけただけなのだが、その時の花材組みが良かったのか、何かを掴んだような感覚だった。

だがその感覚は次の稽古で脆くも崩れ去る。そこからしばらく経ってまた「あ!そうか!」となる。

掴んだような「何か」は、あっという間にするりと抜けていき、掴んだと思って手を開いてみると、全然違うものだったりした。

成功体験の積み重ね

しかしこの「何かを掴んだような感覚」こそ、花をいける楽しさの第一歩なのだと思う。成功体験と言い換えてもいい。小さな成功体験を積み重ねていくと、俄然花の楽しさが倍増する。

私がここまでに要した時間は、どれくらいだっただろうか。3年以上は経っていたはずだ。これが早いのか遅いのかは分からない。そもそも全く違うアプローチで華道家になられた方、長年お稽古をされている方もいらっしゃるから、これはあくまでも私個人の感想だが。

今振り返れば、あの時感じた「何か」とは、基本の形がようやく身に染み込み始めた瞬間だったのかもしれない。

センスの原石

よく「私にはセンスがないから」とおっしゃる方がいる。センスだけで花がいけられるなら、いけばな教室も流派もいらない。

花をいけてみたい、花を飾りたい、花を触ってみたいという気持ち、これこそが何よりも大切で、そのお気持ちがあるのなら、それこそがセンスの原石であり、この原石は磨けば磨くほど光る。

その磨く第一歩が基本形の稽古である。長さや角度を忠実に再現すれば、誰でも作品として出来上がるようにマニュアル化されている。

尤も、これができるようになるまでには、数年はかかる。これは私の花教室に限ったことではなく、どんな習い事でも同じだ。何度も言うが、習い事とはそういうものなのだ。

かつての私がそうだったように、続けることが腹落ちの、上達の近道であり、続けることで楽しさや醍醐味を知ることになる。