桜が怖い


華道家という、花に携わる仕事をしなておきながら桜が怖いとは何事だ、と思われるかもしれませんが、怖いです。


圧倒的な存在感


春を代表する花木ですから、私もこの時期になると桜をよく使います。
一つの作品のメインの花材として、他の花と組み合わせることもあれば、一種いけで桜のみをたっぷりと使うこともあります。

いけばな作品は、自然を再構成する作業ですが、山や街に生えている桜の、圧倒的な存在感に匹敵するほどのいけばな作品に、私は出会ったことがありません。

桜だけを大量に使った大作は、今まで何点も見てきましたし、私も過去に何度も作りました。
しかしそのどれもが、自然の桜と比べると、どうしてもちっぽけな作品に思えてならないのです。

もちろん、自然のままの桜と、いけばな作品の桜とを単純に比較することはできません。
しかしながら、自然の桜の持つ圧倒的な存在感は何なんだろうとずっと考えてきました。


妖しいほどの美しさ


「うつせみの  世にも似たるか  花桜  咲くと見しまに  かつ散りにけり」(古今和歌集)

古来より、花といえば桜のことを指します(万葉集の頃は梅のようですが)
あっという間に満開になり、すぐに散っていく様は、世の儚さや、無常観にぴったりのイメージだったのでしょう。

桜は、特に夜、特別なライトアップも、花見客もない場所に咲く桜。
ほんの短い間しか咲いていないのに、そして当たり前なのですが、誰も見ていない夜中でも咲き続けています。
その姿は妖しいほど美しく、狂おしさすら感じます。
以下に引用する文章は京都の桜ですから、私のイメージするものとは若干の違いがありますが、歌人・馬場あき子は次のように綴っています。



 思い出の桜は幾つもあるが、京都の旅で、初めて円山公園の夜桜を見たときは恐ろしかった。ライトアップされた巨大な桜はまるで白象のように闇に盛り上がる背を見せ、今にも歩み出すかのような力があった。人出も少なく、辺りに深い静謐な時を漂わせていた。奈良や吉野、京都の桜はどこの桜も生き物めいている。風土の歴史の深さが、その一切を見尽くしてきたようなたたずまいを桜に感じさせるからだろうか。大勢でわいわいと桜見物をしているときは別だが、夜更けて一人満開の桜と向き合っていると、人間にとって、何かもっと根源的なことを問いかけられているような気がしてくる。

【中略】

 私はある年、京の宿で、深夜そうした桜と出会ったことがある。昼のにぎやかさ、浮き立つ華やかさとは別の、思索的な桜がそこにあった。とどめえない時の移ろい、いや、散らし続けずにはいられない思いの丈を、黙って耐えて、そっとこぼし続けている桜である。それはおのずから、人間の生の時間とは何かを問いかけられるようであった。

馬場あき子「桜との出会い」より


それでも桜をいける理由


そうまでして桜にこだわる必要もないのではないかと思われるかもしれませんが、それでも私が桜をいけるのには、やはり「何とかして桜を魅力的にいけられないものか」と思い続けているからに相違ありません。

存在感しかり、引用したような「思索的な桜」のような桜を、いけばな作品として成立させることはできないのかと、毎年この時期にになると試行錯誤しています。

そして毎年「何かが違う」と繰り返していると、桜って怖いなという感情になるのだと思うのです。
この「怖い」というのは、恐怖というより、畏怖に近い感情なのかもしれません。

おそらく一生かかっても納得できる作品はできないでしょう。
最近は「桜とはそういう花なのだ」と諦観にも似た思いも巡らせています。