大きな括りで言えば、歌舞伎も華道も技芸の中にあると言える。伝統は時に血脈がモノを言う世界でもある。
私は幼少期に日本舞踊を習っていた。そして今は華道家として活動している。華道の流派も、茶道も日本舞踊もそのトップは代々の世襲であることが多い。そして歌舞伎の世界も。
映画「国宝」は門閥外の役者と御曹司との対比が、これでもかと描かれる。二人の人生はパルスのように交わり、離れ、そしてまた交わり、芸道を極めようとする。これが3時間近く。
こちらも気合を入れなければ途中でダレるかと思いきや、あっという間に終わってしまった。これほど濃密な映画は久しぶりだ。エンドロールでようやく一息付けた。そこにはすっかりぬるく薄くなった烏龍茶が残された。
将来の約束と重圧
私には親しくさせていただいている歌舞伎役者さんが何人かいる。それは映画と同じように歌舞伎の家に生まれた人もあれば、一般のお家から歌舞伎界に入った方もいる。彼らとお話をするにつけ、それぞれの立場での苦悩や葛藤を感じずにはいられない。
これは華道界でも同じだ。家元の子として生まれた以上、将来が約束されているようにも思えるが、完成された組織の中で次代のトップに立つ重圧は如何ばかりであろうか。
自分が生まれる前から続けている重鎮たちの上に立つ、そこにある理由のひとつは血である。
実は私の家も代々ある商売をしていて、私は華道家であると同時に、この家の跡取りである。つまり血である。
他所様から見れば、こんな楽な人生はないと思われるだろうが、冗談ではない。
私は生まれた瞬間から跡取りだと言われ、いずれこの家を継ぐものだと育てられてきた。
「大きくなったら何になりたい」などと将来の夢を語ることすら禁じられてきた。
楽な人生だなんてただの一度も思ったことはない。
今も家業に勤しみながら、花も仕事にしているが、これだってはじめは猛反対された。今でもどう思われているだろうか。
ルーツ
華道家としての視点からでは、全く逆の立場になる。
はじめは流派に属し、そしてそこでは様々な経験を積ませてもらえた。しかしどんなに努力しても家元にはなれない。断っておくが、私は家元になりたいわけではない。なりたいと思ったこともない。ここは強調しておく。
私が流派を離れた理由は述べないが、私のように流派から出てフリーで活動する人間は、流派という後ろ盾がない。愚直なまでに、そして真摯に向き合うしかない。
そういえば、この映画の所作指導をした谷口裕和師も流派に属さないフリーの舞踊家だ。
映画の冒頭、御曹司に向かって「お前には血がある」、部屋子には「今まで重ねてきた稽古がある」と言葉をかけられるシーンがある。
そして中盤、本来は御曹司が代役に出るところを、部屋子である主人公が勤めることになる際、御曹司に向かって「お前の血が欲しい」と印象的なセリフがある。
舞台度胸という意味での「血が欲しい」もあるだろうが、私にはお墨付きとしての意味を感じずにはいられなかった。
フリーで活動していると、ナニ流ですかと訊かれる。
映画では師が倒れてから役もろくにつかなくなってしまう。
結局、ルーツなのか。後ろ盾なのか。
伝統とは、その作品や舞台の出来不出来だけでなく、そのバックグラウンドも重要なファクターとなる。
しかし私はこれが悪いことだと一蹴することはできない。
「お父さんそっくりになって」と、しょっちゅう感じながら舞台を観ている。
芸とは何か
こうして考えると、ルーツ、血脈だと結論に至ってしまうかもしれないが、それでもそれはやっぱり違う。
どんな家に生まれようと、その人の努力がモノをいう世界だ。
私が好きな役者さんで、もう亡くなられたが三代目猿之助丈が、門閥外出身のお弟子さんたちにこんなことを言っていた。
「歌舞伎の家の子どもは生まれたときから三味線の音に囲まれて育っている。あなたたちはそうではない。だから人一倍努力しなければならない」
御曹司といわれる人々にとっては、生まれる前から環境がそうなっている。かつての私もそうだった。
そしてそこにはおのずと努力と精進せざるを得ない、見えないプレッシャーが常に付きまとう。
ゼロからの出発なら、それはそれで血の滲むような努力と、時には不合理なものも飲み込む覚悟がいる。
つまり、どんな環境であろうとも努力しなければどうにもならない。道がつく世界とは、かくも恐ろしい世界なのだ。