師弟

師弟関係は「親子」だと言われることがある。「親先生」なんて言葉があるくらいで。

 

いわゆる「和の習い事」は行儀作法が煩雑すぎるとか、上下関係が厳しいとか、人付き合いが面倒という、どうしてもマイナスイメージが先行しがちで、正直言えば、私も「まぁ、そうでしょうね」と思うところはある。
 今はもうあまり言われないが師弟は親子だとも言われる。特に伝統的な和系の習い事、「道」がつく習い事、「レッスン」ではなく「稽古」と称するものには、特にその傾向が強いのではないだろうか。

 

のびしろ

かく言う私も、和の習い事として、幼い頃は日本舞踊、長じては茶道・華道の師匠に付いてきた。どの稽古も、師弟の繋がり、兄弟弟子の繋がりがやたらと強い。
 しかしこれらは決してマイナスな面ばかりではないと私は考える。師匠と弟子の繋がり、弟子同士の繋がりが良好なほど自由闊達、そこには弟子それぞれの「のびしろ」を尊重していく雰囲気が、師匠にも稽古場にもあると感じる。

 

私の茶道・華道の師は「なんでもやってみろ」というスタンスなので、ありがたいことにわりと早いうちからいろいろやらせていただくことができた。
 例えば、私が初めて花展に出瓶することになった時、私は青竹を花器にしてモミジ・ハナショウブ・シャクヤクを入れた作品を考えた。初出瓶なら壺なり水盤なり、基本に忠実な作品を出すのがセオリーだ。
 入門してすぐ、実力もないのにこんな作品をやりたいと言い出したのだから、モノを知らないというのは怖いもんである。
 青竹に窓を開ける、青竹を真っ直ぐに立てる…などの方法も分からない私に、師はとある先生を紹介してくださった。

 

その方は竹の花入や茶杓などを作られていて、竹の窓の開け方、固定方法、さらには油抜き(青竹から白竹にする方法)まで教えていただいた。入門してすぐの人間にプロ直伝である。
 これは師に直接確認をしたわけではないのだが、あれはきっと私の「のびしろ」を信じてくださったからこそ、その先生を紹介してくださったんだろうと思う。

 

精神的な厚み

「稽古場は恥かき場」と言われるくらい、実はなんでもアリな場なのだし、そうあるべきなのだ。
 私が茶華道の師に入門して25年が経った。その間、どれだけ恥ずかしい思いをしてきたか、こうして書きながら思い返して赤面…どころか、その辺りの畳をひっくり返して穴掘って数日篭りたい気分になる。しかしその恥ずかしい思いをしたからこそ、今もなんとかやっていけてるなとも思う。

 

これは言葉にするのが難しいし、偉そうに聞こえてしまうのは本意ではないのだが、自分が恥ずかしい思いをした分だけ、それが今の私の「厚み」になってるのではないかと思うようになってきた。物理的な身体の厚みではない。精神的な「厚み」だ。身体はもう充分厚い。…なんの話だ。

 

師の懐の深さ

私が自分の教室でのお稽古時に、お弟子が昔の私のような言動をしているなと感じることがある。そんな時「そうだね」とか「そういう時はこうするといいよ」「それは感心しないねぇ」と、大層なアドバイスができるのは、過去に自分がやってきたことと、その時に師がとられた言動を基にしているからだ。

 

そういった話をするとき、私は自らの過去を振り返ることになる。と同時に、私の弟子が、仮に外部のどなたかにご迷惑をかけていたなら、その責を自分が負う覚悟を持たねばならないとも思う。さらにそれは私の師が感じられていたことなんだと今更ながらに痛感し、私の師の懐の深さに感謝するばかりだ。

 

ありがたいことに私の師匠は御歳94にして非常にお元気で、やりたい放題の私の行動を、常にハラハラしながら見守っていてくださっている。
 自らの師のお心を安寧にできないのは、弟子として申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだが、ここらを反省しているようで反省ポーズのようになってしまっているのは、やはり自分の至らないところである。
 私の兄弟子・姉弟子は大変しっかりされている方ばかりなので、師のお心が安らいでいるのは、その方々のおかげと言っていい。これもまたありがたいことである。

 

「道」のつく業界の本質

私はいつも「本当に良い教室」「良い師匠」とは何かと考えている。

 

なにも師が聖人君子である必要はないし、何もかも知っている全知全能の神様である必要もない。知らないことを知らないと言い、わからないことは「それは何?」と正直に言える人が、より知識を貪欲に吸収できるし、効率もいいことを知っていて、それらを吸収して、自分で解釈して、次世代に上手く教えることができる人が「良い師匠」「良い教室」なのではないだろうか。

 

技術や物事の方法を教えるだけでなく、例えば師の人脈の紹介などは、師弟の信頼関係がないと成り立たない。
 先述のように、その信頼関係は、師匠は弟子の「のびしろ」を信じ、弟子はそれに応えるだけの伸びを示すことによってより強くなる。
 これが師弟関係、特に「道」のつく業界の本質であり、親子と言われる所以なのではないかと考えている。