渦の中の女たち


和の古典芸能どっぷりで育ってきた私にとって、洋の、しかもコンテンポラリーという未知の分野の扉を開けてくださった倉知可英さん。


愛知県芸術劇場コンサートホールを訪れるのは、母の友人が出た二期会コンサート以来じゃなかろうか。
そのソプラノ歌手の方は、2010年、自らが病身でありながら僕が出演するステージの東京での自主公演チケットを、いの一番に買ってくださった方。
誰よりも応援してくださっていた方。

その半年後、第1回あいちトリエンナーレ「彩・祀・祭~SAI~」の稽古中の訃報。
トリエンナーレの舞台、自分はアシスタントとしての出演だったけれど、プロとしての心構えや厳しさ、そして何よりも楽しさを教えてくださった、あの方への弔合戦みたいな気持ちで本番を迎えていました。

あれから10年。
奇しくもあの時ご一緒した方も多く出演される「渦の中の女たち」と題された公演を、私は2010年当時の気持ち、10年という月日、そしてその間に広がってきた様々な人とのご縁……グルグルと思い出しながら拝見していました。

悲しみ、憎しみ、孤独、喜びなど、それぞれのシーンにテーマが設けられ、出演者全員が女性で構成され、副題には「今こそ、女性は太陽である」と付けられていましたが、これは女性に限ったことではないと思います。

男だって、何かしらの組織に所属すれば―――

それは会社であれ任意団体であれ、同じ感情を抱くはずです。
だっておんなじ人間だもん。
誰かの成功を喜び、同時に誰かの成功を妬み、そして妬めばわが身の小ささを知る。

うん。分かってる。

誰かの行動に一喜一憂する、それはなんてナンセンスなことかを。
何かを表現する世界に生きる我々にとって、それが「みみっちい」、もっと言えば「みっともない」ことかも分かってる。

でも、つい心をよぎる自らの心情。
そんな感情に蓋をして「何とも思ってないぜ」と装っている自分の心を芯から抉るような舞台でした。

渦の中にいるのは、女という枠組みだけじゃない。
ジャンルや、年齢や、社会的地位、ジェンダーも、キャリアも超越して、人として、一個人として

「アンタは今まで何をして、これからどうしたいの?アタシたちはこういうことやってみたけど、アンタはどうよ?」

と直球でぶつけられた気がしました。

終演後。
ふと「コンテンポラリーって、禅語みたい」と、ぐちゃぐちゃと考えがまとまらないまま帰ってきました。

「コンテンポラリーは後効きする」と言ったのは誰だったか思い出せませんが、ここは「コンテンポラリーは禅語でインドカレーみたいなもん(後からジワジワくる)」に書き換えようと思います。