春雨

いくら食いしん坊な私でも、今回はデンプンが原料の話ではない。たまには風情ある話くらいはしたい。

 

先日の夕方、誰もいない稽古場で作品構想を練っていた。なんとなく湿度が上がったような気がして外を見ると、いつの間にか辺りは暗くなり、雨が降り出していた。

 

「春宵」という言葉がある。読んで字のごとく、春の宵。「春宵一刻値千金」は、美しい春の宵のひとときの素晴らしさを表している。

長い冬の季節を抜け、徐々に陽が長くなる。特にこの季節に降る雨は「一雨ごとに春が近づいて…」と実感する時でもある。

 

私はこの時期が好きだ。カラカラに乾いた冬の空気から、少し湿り気を帯びてきたような感じ。太陽に力が出てきたような暖かさ。夜はまだ寒いけれど、身を切るような冷たさではない。

冬の緊張感からぎゅっと縮こませていた身体が、ゆっくりとほぐれていく感覚がする。

 

 

 

濡れてまいろう

「月様…雨が…」と傘を差しかける舞妓(芸妓だったっけ?)に対し「春雨じゃ、濡れてまいろう」という月形半平太。一幅の画のような場面だ。

 

これが厳冬や酷暑だとこうはいかない。真冬に傘もささず帰れば生命の危機に晒されるし、ムシムシした真夏なら、雨に濡れた方がむしろサッパリするというものだ。

だからと言ってこれから冬に向かう秋だと、そこはかとない寂しさや侘しさのベクトルになってしまう。ここはやはり、春の夜の雨が似合う。

ま、現実には、この時季に雨が降っていれば気温はとてつもなく低くなるし、そんな中で濡れて帰れば確実に風邪をひくのであるが(無粋の極み)

 

 

 

春の温度感

今更な話でご存知の方も多いだろうが、私は松任谷由実さんのファンである。
 ユーミンの楽曲にはこの季節の、しかも夕方から夜の時間帯を歌った超有名な3曲があるが、どれも状況が異なっているのが面白い。

 

新たな恋を予感させる【満月のフォーチュン】では

 
街路樹をざわめかせて 何か来る 春の夜

 

と歌われている。何だろうか。このワクワク感は。春に始まる恋は、夏の暑さと共に燃え上がり、冬になれば「恋人がサンタクロース」などと素っ頓狂なことを言い出すのだろう。そこまで妄想できる歌い出しだ(暴走気味)

 

「春の夜」というフレーズは、温度、湿度、匂い、生命が動き出すうねりまでもが封じ込められている感じがする。そこに恋の始まりをぶつければ、そりゃ成就するというもんである。

 

 

 

これとは反対に別れを歌った【WANDERERS】には

  
黄昏の空は スモーキーに流れて 
一等星だけ見えた
袖ちぎったシャツを くぐり抜けてゆく ぬるい春のとばり

……(中略)……
きみに会えなくなるなんて
きみに会えなくなるなんて

   

という一節が出てくる。「満月のフォーチュン」と比べると、同じ春の夜なのに恋は終わりかけている。花曇りの頃は何となく憂鬱に感じることがあるが、これを「スモーキー」とは、ずいぶんお洒落などんより感である。

 

 

 

しかし春の別れ歌の極め付けは、何と言ってもこの曲だろう。

  
どうして どうして 僕たちは出会ってしまったのだろう
壊れるほど抱きしめた

  

  

冒頭から答えの出ない疑問をぶつけ、引き続いて

  

  
最後の春に見た夕陽は うろこ雲照らしながら
ボンネットに消えてった

  

  

と、一転して今度は美しい情景を描く。

シングル発売されていないのに、誰もが一度は聴いたことのある【リフレインが叫んでる】である。

 

 

 

 

昔一緒にドライブをした駐車場の近くを通り過ぎた主人公、今はいるはずもない元恋人がそこにいたようで、一つ前のカーブまで引き返してしまう。こんなの一歩間違えば幻覚症状である。

  

恋人の幻想を抱いて彷徨うといえば、歌舞伎舞踊の名作に「保名」がある。清元のゆったりした曲にのせて、物狂いになった安倍保名が、恋人・榊の前の小袖を手に春の野の中で踊る姿は、美しさの中に深い哀しみを秘めている。

  

ジャンルもスピード感もまるで違うが、物語の設定はとても似ている。そういえば、ユーミンは幼少期に清元を稽古していたと聞いたことがある。

  

【リフレインが叫んでる】には、「保名」の小袖に匹敵する小道具が「すりきれたカセット」として出てくる。

今となってはちょっとアイテムとして古いが、すりきれるほど二人で聴いた曲であったろうし、それを久しぶりに聴くシチュエーションもなかなかに切ない。今の言葉で言えば「エモい」かな?

デジタル音源になってしまった今ではいつ聴いても同じで、テープがすり切れる、伸びるといったことで時間経過とか、重さのような感情を乗せにくくなっている。でもこの描写を「エモい」で片付けてしまうにはあまりにも稚拙な気がする。

 

ちょっと脱線するが、いっそ「春」で「エモい」に振り切ってしまうなら【最後の春休み】の方がエモさ大爆発である。尤もこの曲の時間帯は昼間になるが。

 
春休みのロッカー室に 忘れたものを取りに行った

ひっそりとした長い廊下を 歩いていたら泣きたくなった
  

 

 

話を【リフレインが叫んでる】に戻そう。

 
夕映えをあきらめて 走る時刻
 

時が進んでいく心情と風景をリンクさせて、続く大サビでは

 
どうして どうして 私たち離れてしまったのだろう あんなに愛してたのに
どうして どうして できるだけ優しくしなかったのだろう 二度と会えなくなるなら

 

 と、これでもかとたたみかける。

これはワンダラーズの「君に会えなくなるなんて」のような甘っちょろい状況なのではない。「走る時刻」だと言っておきながら、「離れ」たことを「どうして どうして」と繰り返すのだから、もう救いようがない。

 

なんならライブでこれが歌われるとき、ユーミンはサビのリフレインを叫ぶように歌う。これぞ本当の「リフレインが叫んでる」である。何の話だ。

 

 

 

 

こうして改めて見てみると、どの曲も春の少し寒さが緩んできた頃の独特な温度感、湿度感が感情と共に見事な描写で封じ込められている。

ライブで歌われるときには、やたら派手なアレンジがされているし、演出だってダンサーだの本火だのと、どれもこれもテンション爆上げで、歌詞の繊細さはぶっ飛んでいる。いいんだ。ライブだから。盛り上がりゃ。 

……というか、春雨の話から どうして どうして こんな話になったんだろう?