先日書いた映画「国宝」の話題。真面目に歌舞伎と華道の話をしたが、今回はスピンオフ?な目線で。
生々しくなってしまう
神田伯山先生曰く「みんな言いたい放題だっ!」(TBSラジオ「問わず語りの神田伯山」7月11日放送)そんな感じで。
興行ランキングでも1位を突っ走っている大ヒット映画「国宝」
私の周りでも「あの映画は凄かった」と話題に出る。そして決まって劇中の舞台シーンについての話題となる。
そりゃ本職の歌舞伎役者じゃないんだから、舞台所作が多少不自然なのは致し方ないが、当代一の連獅子ならもうちょいと…ね。
さらに、あのゴツさで女方とはこれ如何に。兼ねる役者なのか?そういや口上では立役の裃姿だったな。
何よりも松竹全面(なのか?)協力の東宝映画。考えてみれば松竹がこの映画を制作したら、あまりに生々しい気もする。
映画に登場する様々な人物やエピソードは「ひょっとしてあの人がモデルかな?あのエピソードがモデルかな?」と思わせる。
舞台から遠ざかった小野川万菊のことを「婆さん…いや爺さん」とは、綺麗なんだか不気味なんだか分からなかった、あの名優を思い起こさせた。
劇中の鷺娘は、万菊は鉄杖を持ち二段に上がって幕となり、半二郎は雪の中で息絶える。あぁ、やっぱりあの二人の対比か。
さすがにこれを松竹がやるわけにはいくまい。
虚構の美
大歌舞伎の舞台から離れ、地方の健康ランドみたいな舞台に立つ半二郎。金糸のほつれが目立つ帯、タボの部分に油っ気がなく、結上げバランスの悪い鬘。一目で落ちぶれた感満載である。
この時使っているカセットテープデッキ、あれまだ存在してたんだ!
いや、そっちかいと思われるかもしれないが、そっちである。
私が日本舞踊のお稽古をしていた時も、同じものを使っていた。そしてこのカセットデッキは劇中で何度も出てくる。
こうしていちいち細かい部分を見ては、あーだこーだと考えを巡らしてしまうところが姑根性たる所以である。
それにしても、二人道成寺に所化がいないとは不思議だ。白拍子花子の出の直前には、聞いたか坊主の声が聞こえている。しかし舞台上に所化がいない。どこいった。「あやめ杜若」は踊ったのか?「西も東も」は?
もっと言えば、後年、人間国宝になった半二郎の鷺娘の舞台、舞台のどこにも地方すらいない。まさか音源で演ってるわけでもあるまいに。二人道成寺では後ろに地方がずらっと並んでいたではないか。
全体的に興行といった感じがしないのはこんな部分なのかもしれない。日乃本座(外観は歌舞伎座)の大舞台、1ヶ月興業のはず。
歩けないほど脱疽に苦しんで、何なら化粧も鬘もズルズルになってしまう半弥なのに、代役も立てないのだろうか。そりゃ1日とか2日の勉強会なら分からんでもないが。
否。そこも含めてエンタメである。舞台上が虚構の美なら、この映画自体も虚構。私が言っている様々な戯言は、しょっちゅう家元が殺される2時間サスペンスにブーブー言っていることと等しい。そういえば最近は2時間サスペンスってすっかり見なくなったな。散々殺されまくってもう被害者になりそうな家元がいなくなってしまったのだろうか。
脱疽といえば、三代目澤村田之助が有名である。おそらくではあるが、半弥が脱疽になったエピソードはここらあたりから来ているかもしれない。
それでも執念深く舞台に立ち続けた話は、今でも様々な形で語り継がれている。歌舞伎化もされている。田之助役は澤村藤十郎。しかしそれも1997年の上演が最後になっている。これ、何とか復活できないものだろうか。紀伊国屋総出演で。
オーバーラップ
ゾッとする忘れられないシーンがある。
曽根崎心中、半弥がお初、半二郎が徳兵衛。刀を突きたてる幕切れ。そこにすべての人間模様が凝縮されオーバーラップしていく。喜久雄であり半二郎。そして徳兵衛。役に役を重ねる吉沢亮の凄味といったらなかった。
多少振りがおかしかろうが、セリフ回しに違和感があろうが、そんなことは全部吹き飛ばしてしまうエネルギーがあった(だったらなんであれほどブーブー言ったのか)
そしてもう一つ。映画冒頭の関の扉で関守関兵衛を演じた下川恭平のセリフ回しが本当に素晴らしかったことも付け加えておく。
そのゾッとする忘れられないシーン、更に付け加えて。
これは書くべきか悩んだが、どうしても書かずにはいられないから、ご批判覚悟で。
さっきも書いたが、化粧も鬘もズルズルのお初。
私は志村けんの病気の芸者コントがオーバーラップしてしまった。
いやいい場面なんよ。でも一旦そう見えてしまったら…ね。
