叔母のはなし

本来であれば祝賀のご挨拶を申し上げるべきところ、本年は都合によりそれができない。

年始早々、暗い話で申し訳ないのだが、まずは以下のポストをご覧いただきたい。

喪中どころか、まだ忌も明けないので、今年の元日からは「明けました」と事実のみをご挨拶としている。

突き詰める人

叔母の病が見つかったのは令和4年。それまで点滴ひとつやったことのない人が、いきなりの大病で本人も周囲も驚き、狼狽した。

私にとって叔母はもう一人の母のような存在で、そして生涯独身だった叔母も、私のことは息子のように思っていてくれたと思う。

病気が分かって以来、治療や検査にはほぼすべて付き添ったし、自宅で介護状態になった時には訪問介護の皆さんのお力を借りながら、介護の真似事のようなものもできた。

最期は緩和ケア病棟で、私の手を握りながら、穏やかに、本当に眠るように息を引き取った。

叔母は多趣味な人で、日本舞踊の他にもゴルフは多い時で週に3日もラウンドし、時にホールインワンまで達成し、記念コンペはとても盛大に開かれた。茶道は茶名、華道は雅号をいただくまで稽古をし、着付けは十二単まで着せることができ、何事もトコトン突き詰める人だった。

手向ける

コロナ禍以降、家族葬が主流となっているようだが、叔母の年齢や交友関係の広さを考え、一般葬にした。

葬儀社との打ち合わせで、故人の愛用品や写真を展示する【思い出コーナー】を設けることになった。

そこには幼少期の叔母が踊った藤娘の衣裳や、舞台で使った扇、初めて道成寺を踊った時の絵姿の軸、愛用のゴルフバッグとクラブを飾り、元気なころの叔母の写真をスライドショーで流すことになった。

自宅に安置している時から床に飾っていた

さらに通夜式、葬儀・告別式の開式前に祭壇横のスクリーンで、スライドショーとは別の動画も流すこととなり、写真や動画データを準備し、編集作業をすることが決まった。

どれも喪主である私が言いだしたのだが、作業を始めてすぐに後悔をした。こんなの間に合うのか?前回の社中展だって思い付きでメイキング動画を流そうと言い出して、そのあと大変な思いをしたではないか。

幼少期から最近までの膨大な量の写真をスキャン、スライドショー用のデータを作成し、動画の原稿を作っていった。

アルバムをめくるごとに叔母との思い出が怒涛のように押し寄せ、泣きながら編集作業を進めた。完成したときは夜が白々と明け始めていた。

動画をご覧になった方や葬儀社の方からは「準備が整いすぎているが、ちゃんと悲しんでいますか?」と心配されたが、結果的にはこの編集作業で叔母と過ごした40数年間の感謝と、別れを告げることができたのだと思う。

母の発案で、棺の中の叔母に花を手向けてのお別れを、通夜式でも行うことにした。そしてその花は私のお弟子が用意してくれた。私のお弟子のことが大好きだった叔母は、花教室の飲み会や食事会にも顔を出していた(誘ってもないのに)

紅葉柄の着物の懐には帛紗や懐紙を入れ、帯には茶席扇を差し、胸には舞扇を、さらには思い出コーナーに飾った藤娘の衣裳を掛け、お世話になった料理屋さんが特別に作ってくださったお弁当、親族一同の寄せ書きを携え、皆さまに手向けていただいた花に囲まれ華々しく旅立っていった。
荷物、多すぎやしないか?

まもなく四十九日の忌明け法要を迎える。親族が亡くなるということは、その後の手続きがスタートすることを意味する。着実にひとつずつ終えていくにつれ、少しずつ遠くに離れていくような感じがしている。